@article{oai:shizuoka.repo.nii.ac.jp:00000560, author = {Hamauzu, Shinji}, issue = {2}, journal = {Studies in humanities}, month = {Jan}, note = {application/pdf, 哲学においては、古代ギリシア以来、或る意味では、対話にいつも重要な役割が与えられて来た。言うまでもなく、哲学(Philo-sophie)という語と同様、対話(Dia-log)という語もまた、古代ギリシア語に起源をもつ。ソクラテスの哲学の方法は、問答という対話であったし、プラトンの哲学の叙述形態は、その師の対話を再現することから始まる対話篇であった。一・二人称が中心となる対話形式に対して、アリストテレスの三人称を中心とした講義形式の叙述は、一見、対話とは縁遠いように見える。しかし、彼は人間を「ポリス的動物」と呼ぶかたわらで「ロゴスをもった動物」とも呼んでおり、その行間を読もうとするとき、ロゴスを交わすことによってポリスを形成するという人間の姿が浮かび上がる。そこには、アリストテレスにとっても対話の役割が決して無視できないものだったことが窺われる。その後も、アウグスティヌスからガリレイやバークリを経てファイヤーアーベントに至るまで、対話形式で叙述する哲学者は綿々と続き、また、必ずしも対話という叙述形式を取らなくとも、トマス・アクィナスの「異論〜反対〜主文」という叙述形式から、カントの弁証論(Dialektik)の特に二律背反(Antinomie)や、ヘーゲルの弁証法(Dialektik)に至るまで、対話の精神が脈々と流れているとも言えよう。それゆえ、対話が重要な意味をもっているのは、必ずしもブーバーらに代表されるいわゆる対話哲学(Dialogphilosophie)と呼ばれる流れにおいてのみとは限らない。むしろ、一見すると対話とは縁遠いように見える哲学においても、対話の場面が論じられ、対話の問題が議論されていることかありうる。そして、そこにおいて、そもそも対話とは何か、対話はどのようにして成立するか、真の対話とは、といったことが浮かび上がってくる。小論は、そのような間心から、フツサールとハイデガーのいくつかの場面を取り上げて、それこそ一見すると対話とは縁遠いように見える現象学の出発点において、対話がどのように考えられていたかを考察し、それによって、<対話の現象学>にむけて一つの準備をするものである。そして、それはまた、他の諸学との<対話>を通じて現象学の新しい可能性を開くためにも役立つことになると考えている。}, pages = {1--16}, title = {Zur Phänomenologie des Dialogs : Husserl und Heidegger}, volume = {52}, year = {2002} }